(1)本の構想

解説
録音を始める前に、構想中の本のテーマは、<ことば、資本主義、民主主義、人道主義>の4つであると聞いていまいした。ですので、それを踏まえてのインタビュー開始となっています。

トランスパーソナル関連の書籍を執筆・翻訳しつづけてきた吉福さんがどうしてこんどは資本主義や民主主義といった社会的なテーマについて書こうと思ったのか聞いてみました。

吉福さんは、米国で起こった「9.11」を見て経済システム・政治システムを全面的に洗い直して世界における極端な格差を解消しない限り、テロのような行為はなくならないと感じ、
これから日本で新しいシステムの構築に向かって動き出す人のために本を書こうと思ったということです。

吉福さんは、資本主義にも民主主義にも未来があるといいます。



インタビュー(1)本の構想



伊藤(聞き手):
本の話をお聞きしたいんと思います。これから書こうとしている本についてなんですけど、内容としては「ことば」と「資本主義」と「民主主義」と「人道主義」について。まず、書こうという動機みたいなものについてお伺いします。いままでの「トランスパーソナル」なこととは離れて違う角度なんですけれども、どうしてそういう風に違うものを書こうと思ったんですか?

吉福:
基本的にはおそらくね、911(NYテロ)があってからだね。それまではまだ日本に帰ってこれからもう一回何かをしようという気持ちは全然なかったんだ。もう一応やることは、とにく日本ていうことに限った場合ね、ぼくはたぶん時代的にやることはぼくなりにやって、このあとどうなるかわからないけれど、まあぼくの役割は日本という文化の中ではこれでおしまいにしようと思っていたんだ。

だけど、911があって、それに対するアメリカの反応や、アメリカ人全体の感触、それと日本人の反応や日本の政治的な対応、他の社会の国々の反応、とくにイスラム圏の反応、といったものを見てね、
ぼくは、ビンらディンを頭とする「アルカイダ」に限らず、基本的に西洋社会が考えている「テロリスト」という概念でくくってないんだよ。
ぼくは彼らが、彼らの行為、いくつかの行為、その中にはテロリストということばをつけざるを得ないようなことをやってることは否定はできないんだけど、やむにやまれない大儀をもっていると考えているんだよ、イスラム圏の人々は。
大儀ってわかるよね?大儀をもっていると考えているから、イスラム戦士だと思うんだけどテロリストとは思っていないだよね。それに対する今言ったことを含めた全世界的な反応を見た上で、ぼくが求めていた911のあとの反応はね「報復しない勇気をもつ」ということだったんだ。

報復しない勇気をこの国(米国)が持つことができれば、人類全体の状況というのは、おそらく僕なんかが視線を向けていた方向に向かうと思ってたんだけど、国全体の気配、あらゆること、当時ブッシュが大統領になりたてだったことを考えて、ぼくが求めているような反応があるとはまったく思えなかった。

その状況を見たとき「やっぱりこうなっていくんだー、って人類っていうのは」と思ってね。これはね、911が911で終わらないから、まだまだいくつも続くと思うんだよこの事態は。
イスラム諸国全体がある程度の生活レベルの向上が起こって、自分たちが社会の中で激しく阻害されているという感覚を抱かなくなるにはまだまだ時間がかかると思うし、彼らが抱かなくなってもこんどはさらなるマイノリティが確実にでてくるから。

経済システム、政治システムを全面的に洗いなおして、極端な格差、地球上における極端な生活レベルの格差というものをそうとう解消しないかぎり、ああいった行為は止められないと思ったんだよね。それがあって世界のいま我々が使っているあらゆるシステムを基本的に見直す必要があると思ったんだ。

そのことに関して、少なくともぼくが日本人として生まれて、日本人として生きてハワイでこうやって暮らしてて、これまでやってきたことは心理学の側面でってことを考えた場合、ぼくの目はやっぱり日本に向いてんだよね、自分が日本人だから。
日本に関して日本から、その点に関して本格的に何かをしよう、何かをしていく、新しいそういうあらゆるシステムの構築に向かって何か新しいことを本格的にやり始めようとする人が何人ぐらいでてくるかなと思ったときに、ぼくにもたぶん役割がある、と感じたんだよ。おそらくできるだろう。

僕のように、日本と日本以外のところ、人生の半分づつぐらいなんだよ、日本で住んでるのと日本の外に住んでいるのが半分ぐらいで、ことばも文化的にはある程度吸収してるし、二つの異なった文化だよね、少なくとも日本と日本以外、でことばからいくとスペイン語とかポルトガル語とかいくつか他にできることばがあるから、文化圏はいっぱい知ってるから、そういったことを考えたときに、そんなにそういう条件が整った人はいなくて。比較する能力も必要じゃんか、そう考えると、ぼくにも十分役割があって、じゃあその役割をやろうかなあと思ったのが911のちょっとあと。

911がひとつの大きなポイントだったということだよね。ぼくがハワイに来たことのひとつの大きな理由は、こどもたちを自然に近いところで、ぼくとかエっちゃん(奥さん)とかがいるそばで育てていきたいというのがあったんだよね。だけど(現在では)男の子ふたりが成長していって下の子がもう大学に入った、ということがあって。家庭内のダイナミズムもちょうどぼくなんかがそうしたことをできるところには来たのかなあ、というのはあったかな。

エッちゃん(奥さん)にはね、ぼくがいろいろやるんで迷惑はかけるから大変だけれども、ぼくなんかもう人生がだいぶ終わりのほうに近づいてきてるから、自分でできることの限界って見えるからね。何ができて何ができないか、見えるから。そのあたりがぼくの判断の下し方だったのかもしれないね。

ぼくが何か日本に対してやると言っても、日本の社会そのものに全面的にコミットするわけじゃないからね。やっぱり生活の場はこっちに置いといて、日本に年に何回か行ってってそういうやりかたをするから。
本格的に日本的な意味での、東洋的な意味での自分がやってることにすべての責任を担いきるような形のやりかたはできないんだよね。日本の社会の外にいる人だから。そういう関わりしかできないので、ぼくはやっぱり自分の行使できる力とか影響力のようなものはミニマムだと考えてるんだ。もうごく非常に低い、弱いと考えているんだ。

日本の中でぼくが何をやってったとしても、その影響力ていうのはすごく低い、と自分で考えて、だからそういった認識に基づいていま日本との関わりの中でやってるんだよね。その認識は今もしっかりと持った上で。やったってどうせたいしたことはできない、ぼくが死ぬまで必死になってやったってたいしたことはできないってわかってるんだけど。

本当に何かしようと思ったらエッちゃん(奥さん)とぼくふたりが日本にどんと帰って腰を据えて死ぬまでやる、ってやれば変わると思うんだけどね。それはちょっとやれないと思うので。自分にできる最小限の影響力しか発揮できないとしても、できる範囲内で言いたいことをきちっと言っておきたい。少なくともやっぱりこの混迷、混沌としたさっき言った四つの問題、混沌としている状態の先に光があるんだということを示したい、というところなんだよね。

資本主義は今のままでは大きな問題だけど、これを大きく変更することによってこの先に経済システムが格差がそれほどないような、人類全体にいきわたるような方向にもっていく可能性が十分にある。
民主主義というのも、いまはあらゆる意味で人類全体の成長のレベルの問題がすごくあったりするからうまく機能していないけど、これもまだ全面的に捨て去るんではなくて、これを大きな変更を加えることによって将来に光がある。
人道主義という、ヒューマニズムという考え方も、やっぱりある種の反動としてでてきているかもしれないけれども、いまはさっき言ったみたいに、たくさん現代社会にタブーがね強い力をもってるけど、このタブーというものはある種どんでん返しによって転換していけるものだから、ヒューマニズムの先にも、あれが完成としてではなくて、この先さらに発展できる。

「ことば」ということに関しては、ことばと我々の関係性が、現代社会ではやっぱりことばに我々は使われている、と思っているんだよ。大半の人が、自分が使うことばというシステムに完全に取り込まれてしまっていて、自分がことばを使っているのではなくて、言語システムによってつかわれている、とぼくは考えているんだよね。
その関係性っていうのは非常に不健全な関係性なんだよぼくから見ると。非人間的なことばが、人を支配することになってるから。これもことばとの関係を全面的に入れかえる必要がある、というそういうようなことだよね。
そうすると、些細な微細なもう本当にセンシティビティ、ちょっとしたセンシティビティを重要視するような言語の使い方も不可能じゃない、と考えているから、その四つに関してはそういうことだよね。

どれに関しても今の現状は問題がすごくあるけど、それを発展させていけばさらに光が見える、そこでどん詰まりじゃないんだよって。ぼくは資本主義がまったくダメだって言ってないんだよ、資本主義は発展させればさらに平等になっていく可能性がある。民主主義も発展させればもうちょっと本格的に機能する可能性がある。ヒューマニズムもそれを発展させれば我々を拘束するような力として働くのではなくて、異なった働き方をする。
ことばとの関係性も、もうちょっと我々がことばというもののシステムのもっている性質をしっかりと見極めていけば、ことばに使われないでことばを使えるようになる。というふうにぼくは見てるんだよね。