(6)借景編

解説


インタビュー(6)借景編


伊藤:吉福さん、発達論っていうことを書こうとしてるって前、『処女航海』に書いてあったんですよ。次は発達論を書こうと思うって。
心理学の中でさ、発達論がものすごい重要だからさ。

伊藤:ぼくのこのまえだした疑問の続きなんですけど、この自分が形成、自我っていうかパーソナリティが形成されるときに、まあカルチャーや家庭にプログラムされていくわけですよね?

うん。

伊藤:で、気がつくと自分という感覚を持っているという、何歳かになると。
そのへんのなんかこう、なんかよくわからないですよね。プログラムされてつくられたものなのに自分という感じを感覚を持っていくわけですよね。

それはあなたその人間が生まれ出でてから自分を獲得していくまでの過程は詳しく様々なものに描写されてるよ、心理学の初期の段階なんかから。
なんのことを言ってるのかよくわからないんだけど。

伊藤:うーん。

あの、生まれたばっかりのこどもの(不明:)みたいなもの、自他の区別がない状態からの発達だから、自と他の区別からはじまっていくんだよ。で、こどもにとってだいたい最初の他人は母親なんだよ。で、要するに母と自分の区別からしてはじめて自他っていうのが、自他の区別が起こってくるときにもうそこにすでに自分の芽生えが存在すると思わないかい?自と他ってのをわけるときに。そうやって展開して自分になっていくんだから。で、埋められていくんだよ次から次へと。

たとえばさ、ユンギアン・サイコロジーでさ、アーキタイプってことば知ってるかい?元型って意味に訳されるんだけど。そのアーキタイプのように、そのままぴたっと当てはまる概念ではないんだけど、我々の中には生まれたとたんに、要するにねらせん状のDNA的なところで、様々な能力や可能性のようなものが、からっぽの状態でずーっと全部あるんだよね。アーキタイプというのは、要するに枠組みだけなのは知ってるでしょ?で、例えば老賢者っていうねアーキタイプにアイデンティティを持ってった人っていうのは、要するに老賢者っていう枠の中にアイデンティティを持つようになって、で、実際にどういう老賢者になるかっていうのはそのひと次第だからね、内容を埋めるのはそのひと次第だから。それとぼく一緒だと思うよ。赤ん坊の場合。自他の区別ができあがってきて、要するに自分という枠だけがあって、どういう自分になるのかっていうのは、まあそのまわり、その後の自分のことだから。
何を聞いてるの?よくわからなかったんだけど。

伊藤:えーとね、最近吉福さん、このまえ「借景」って話をされたんですよ。

借景?ああちょうどあなたが来たセッションのときに借景の話してたよね。

伊藤:はい。あれっていうのは、いわゆる家系とか、おもに家系のことを言ってましたけど、

そうだね、自分の先祖だとかさ、要するに自分が生まれ育った文化の過去の歴史全体をつないでくるようなものだよね。

伊藤:それはある意味、無意識レベルで伝わってくる家庭っていう、家族っていう密なコミュニティーの中に伝わってくる、無意識レベルで伝わってくる傾向とかそういうことですか?

借景のこと言ってるの?

伊藤:ええ。

傾向ってことばがぴったしかどうかちょっとわからないんだけど、自分ではまったくコントロールできないものなのよ。そのことは。自分の先祖、両親も含めて先祖たちがどういうことをして何があって自分にどういったことが遺伝レベルで持ってきてるのかっていうのは自分にコントロールはできない。さらに同時に、なんていうかね、ミームの話は知ってるよね?ミームのようなプログラミングも自然に行われていくんだよね。そのへんのことも結構自分ではコントロールできない状態になってるよね。

ぼくがあそこで借景ってことを語っているのは、要するに我々は、自分っていうのをね、生まれてから築き上げていって、あたかも自分ひとりで築き上げてきたみたいに感じてるかもしれないけど、実際にはそれの背景となっているのは、自分の先祖、そういったものがずーとつながった中にずーっといるんだよ。その景色をあなたは変えることはできないんだよ。ただその景色をどっから見るか、ていうその見方をかえることはできても、その景色そのものに手をだすことはできない。ね?どうすることもできないかたちとして、もしそれを自分の中、自分の一部として組み込んでいきたいんだったら、借景というかたちで組み込んでいくしかないようなことなんですよってぼくは言ってるんだよ。そういうのは。

要するに過去にあなたが生まれてくる前のあなたにつながってくるすべての命の誕生からの流れというのは、あなたにとってあなたの自己というものの境界が透明になってはるかに広がっていってしまった場合には、そういったような状況はすべて借景としてあなたに作用し、その借景をすべて使って、すべて使ってあなたが自己というものを確立することができれば、あなたの自己というのは信じられないぐらいの広がりを持ちえますよ、ってぼくは言ってるんだよ。それで借景って概念を持ち出してきてるんだよ、日本の。
伝わるかな?

伊藤:はい。それはいまちょっと新しく聞こえましたね。違うふうに理解してたんですけど。

だからちょっと違うふうに理解してるみたいなので、いま言い直してあげたの。あの、こうですよ、ってああいうときにはぼく言わないからさ。ああいうとこではみんなにね、ヒントをぼく与えてるだけなの。あとは自分で考えなさいってことなんだよね。だからいちいちこと細かくいかないでしょ、ぼく。こう全体にこういうことなんですよって。で、日本的な捉え方をすると借景ってすごく大切で、一種のね、目に見えないランドスケープだって言うんだよ。ランドスケープって日本語にするとなんていうのかね?

伊藤:風景ですかね。

うん、風景、風土のようなもの。そのランドスケープがね、目に見えないランドスケープなんだけど、ランドスケープがあなたがあなたとしてそこに存在するためには、しっかりと背景にあるんですよってことを言ってるんだよ。そのことをまったく無視することもできなければ、そのことに反発してしまうと取り込まれていくし、ていうそういうようなことをぼく言ってるだけなんだよ。

だけど、自分としてとにかくこの地球上にひとりで立つときには、その借景の力とはまったく関係なくひとりで立つんだよ。で、きちっとして自分で立ったときにはじめて借景が見えてくる。その景色が。それまではね景色が見えてないのよ。大半のひとはこだわってしまっているから。親だとかおじいちゃんおばあちゃんだとかね、その血の流れだとか、文化的な中での家族の意味だとかね、社会的な家族の立場だとかそういうようなことが中心になってきてて、その自己の背景にある景色としては、その自分のところまで繋がってきたようなものがしっかりと存在していないのよ、自分が確立するまでは。自分がある程度確立されるとはじめて借景として存在するようになってくるんだよね。

伊藤:確立するまではもっとこうまざってるってことですか?

もうぐじゃぐじゃで、自分なのかなんなのかわからないような状態が多いと。あなたがあなたのお母さんの話をするときに、もうそれがしっかりと分離していないってのが見えるよ。話の流れの中で。

伊藤:ああ。

あの、そんなにお母さんにひっかかってると思えないけど、マザコンだとはぜんぜんぼく言ってないんだよ。そういう問題があるとは思えないけど、でもきちんと整理されてないし。お父さんとお母さんのことに関してはね。別に整理されてないっていうのは、ことばの使い方とかそういうところに出ているんではなくて、触り方、触れ方にでてるんだよね。

伊藤:触れ方?

うん。親との関係性のようなものに関しては、そんなにはっきりまだピシっとしてないっていうのは見えるけどね、それはね。だけど、借景っていうのはぼくが語ろうとしたのはそういうような形で語ろうとしてるんだよね。

伊藤:うーん。じゃ借景が見えてくるっていうのが、成熟していくサインっていうことですか?

借景が借景として見えてきた場合。もうそれすごい大切なんだよ。借景が見えてくるだけでは何の意味もないんだよ。借景が借景として見えてくるようになったときに、はじめて自分がある程度確立されたっていうことが言えるわけだよ。

伊藤:つまり、ある程度どれが自分でどれが借りた景色なのかが区別されてるっていうことですか?

あの、自分が手を出せないものとして。自分の力でそれをなんとかいまできるものではないものとして。もう在るものとして。自分が物理的に自分の存在がこの世で始まったときに、その存在を支えていたものだから。その存在が生まれてくることを支えていたものでしょ?

伊藤:はい。

だから、それは存在するようになったあとに、その事実?その事実をなんとかすることはできないんだよ。否定することもできないんだよね?でしょ?

伊藤:できないですね。

手を出せないものとして存在してる。だから借景だって言ってるんだよ。自分が何かしたわけじゃないんだよ。もともとあったものなんだよ。そう思わないかい?

伊藤:そうですね。

だから借景だって言ってるんだよ。ただ大半の場合は借景として見えていないって言ってるんだよ。自分がはっきりしてこないと。だからぼくが語っている借景が借景として見えてきたときに、自己の借景として見えたときに、はじめて自分は、ある意味でね、自分は自分の家系の流れの中から首をもたげてひとりで立ち上がったって言えるっていうんだよ。そうじゃないとその家系の借景に飲み込まれてしまってるんだよ大半の場合。わかるかい?借景に飲み込まれちゃうのよ。

伊藤:借景に飲み込まれる?

家族の、血筋とか伝統が持っているそれにぜーんぶ飲み込まれてしまってるって言ってるんだよ。そうしたら借景でもなんでもなくなるでしょ?飲み込まれてしまったら。それが自分になるじゃん。ぼくは自分が借景になることは選んでいないんだよ。でもたくさんの人は自分が借景になることを選ぶのよ。家族の伝統を全部守って進んでそのままやっていく、っていうやりかたっていうのは、それに近いんだよ。ただそれをやったからといってそのひとは借景になったとはいえないんだよ。その人の存在そのものが一番問題だからね。そういうことをやったとしてもしっかりと立ってる人かもしれないから。ね、それは。
伝わったかい?いまのは。

伊藤:はい。非常に身近な。。家系ってちょっとなんかぼくのイメージを超えていくところがあるんですけど。親って、親でもいいんですか?

もう親だってひとつの家系じゃん。あなたのひと世代前ってだけだから。一代前。親にもう集約してるんだよ、親にも集約してるし、おじいちゃんおばあちゃんにも集約してるし、ひいおじいちゃんひいおばあちゃんにも集約してるから、こういうふうに無数にみたいにこういうふうに集約していくんだよ。
それが、集約したものが、そのまたあなたになると、これどんどん増えていくんだよ。ぐわーっとそういうのもでてきて。であなたの場合はいま言ったのは、要するにおじいちゃんおばあちゃんからもっと先の先祖に関してはあなたの中にリアリティがぜんぜんないんだってことだよね。でもそのリアリティっていうのはあなたの両親を通してもう常にあるんだよ。

伊藤:うーん。ありますね。

だからしっかりと見るんだったらね、要するに両親の中に、両親の借景と両親をしっかりと見なければいけないんだよ。だから両親とあんたとの、両親、母親なら母親だと思ってる人がいるじゃんか。母親も借景をもってるんだよ本人が自覚してるかは別にして。混乱したままかもしれないけど。だからもし本人が混乱したままで、母という自分と、母という部分的なアイデンティティをもった自分と、そのひとの借景をしっかりと区別してない場合は大変だとおもうから、そうしたところをあなたが見ながら、母そのもの、人間としての母と、その母が立っている背景にある借景を見極めてあげればいいんだよ。
大丈夫かな?

伊藤:それは生育歴を見るっていうようなことに近いんですか?

そういうようなことではない。あのさ、クロノロジカルに、わかるかな、年代記的にそんなことを追っかける必要はない、いま、そこにいるお母さんにすべてがあるから。そこにすべてが集約されているからすでに。いちいちたどる必要はどこにもない、そこに全部あるんだから。わかるかいそれ?で、あなたの記憶の中に残ってる母の中にも全部あるんだよ。あなたが2,3歳のときの母の記憶ってのがもしかしたらあるとしたら、その母にも全部あるんだよ。たどるってことじゃないんだよ。

伊藤:目の前の人の借景を見るっていうこと。。

なんか伊藤君が言うとちょっと大丈夫かなって不安になるんだよね。(笑)
だから、いちいちたどってこうこうこうだっていうことでは、ぼくが言ってるのはね、借景なんてことを言ってるのはね、あの、具体的にこうこうこうってことではぜんぜんないんだよ。

伊藤:ああ、そういうふうに見ろっていう。

うん。家系ってさ、家ってみんなある雰囲気だとかいろんなものがあるでしょうが。その全体像のことを言ってるんだよぼくは。家というものにはそういうものがあるから。
ちょっと待ってね、ぼく洗濯物を。
<洗濯物を取りにいく>

すこしづつはでも伝わっていきつつあるかな、言ってることは。

伊藤:はい。

そうでもなさそうだな?

伊藤:じゃあちょっとぼくが言ってみると、えーっと、例えば誰か個人を見るときに、えーと、その人とその人の、えーっと、その人のもってる家系の状況とか、そういうものとの関係を全部含めて、その人がここにあるっていう見方をするっていうこと。

ことでしょ。いや、ぼくは自分のことを見るときにそのことを言ってるんだよ。あなたのことを語ってるんだよ基本的に。人を見るときにこういうふうに見なさいって言ってるんではなくて、自分自身。

伊藤:自分自身。

うん。自分自身をみるときに、要するにたとえばあなたがリアリティのあるさ、その先祖たち、それが親であれば、親の中に、ね、親のありかたっていうのがあなたの借景だから、そういうような目でみなさいって言ってるんだよ。
人を見るときにこうしなさいって言ってるわけじゃぜんぜんないんだよ。あの、さっきお母さん、お母さんの例で言ったのはさ、そういう大半のひとがね、借景とひとりひとりの人の区別をしてないから、お母さんが区別してないような人だとしたらね、あなたがそういうふうなのを見極めてあげれば、母親にもアドバイスできるし、いろいろできるじゃんか?それで母親とあなたの関係にも大きな変化が起こってくるから。って言ってるんだよ。

伊藤:はい。

伊藤:じゃあ、借景のところで、メッセージを吉福さんこめてたのは、自分をみるときに、ぐちゃぐちゃしているものの中に、

それはぼくが昔ルネッサ赤沢(伊豆のワークショップ会場)で話したことのことを言ってるの?

伊藤:そうです。自分ではどうにも動かせない、自分に影響を与えている背景を含めて自分を見ろってこと。

そうだね。

伊藤:そうすると。。まあ、そうか。。そうすると、どうなる、と言おうとしたんだけど、そうするとどうなるんだろうって思って。そうするとまあ自分の見方がちょっと。。

あのさ、普通に考えるとさ、人からこうこうこうって言われるとさ、じゃあどうなるの、そうなるとどうなるの?って質問になるよね。すごく普通だと思うんだけど、だからあなたが悪いっていってるわけじゃないんだけど、違うんだよ、そういうことじゃないんだよ。あのさ、こうこうこうういうことをすればこうなる、っていうふうには物事はいかないんだよ。そういうふうにものごとがいくにはここ(頭)だけなんだよ。現実っていうのはもっといっぱい要素が入っているので、そんなことないかい?頭で考えると物事は簡単に運ぶみたいだけど、いっこいっこの事態っていうのは、ほら、考えることは捉えきれないでしょ?

伊藤:はい。

だから、例えばさ、今言ったみたいに借景の存在をちゃんと考えてその人をそうやって見る、見たらどうなるか、っていうのはそうやってみないとわからないんだよ。そういうのをほらよく言うと思うんだけど、状態特定的なんだっていうんだよ。わかるかい?

伊藤:状態特定的。

states specific っていうんだよ、英語だと。states specific ということばがあたって、状態特定的って言って、その状態にならないと起こらないことなんだよ。その状態にならないとわからない。そういうのを状態特定的って。あのね、さっきの話もいっしょだよ。さっきの、要するにほかの大人に好かれなきゃいけない、かわいいと思われなきゃいけないっていうのは、人間の成長発達にとって0歳から2,3歳時、4歳児ぐらいまでの間、状態特定的に必要なことなんだよ。0歳から3歳ぐらいという状態のときに必要とされていることなんだよね。で、その状態特定的なことで、そうじゃない状態のときには必要としないんだよ。なのにひきずってるのがあなただって言ってるんだよ。で、あなたの限らず人類の、99%がひきずってるんだと思うんだけど、ひきずってるんだよ。でそういうのを状態特定的って言って、いま言ったみたいなことも、借景を借景として見てそのひとをそのひとと、誰かを見る場合ね、見ることができないとどうなるかわからない。それができないと。それをやってみないと。そうやっていてないのに、やってみたらどうなるんですかね、っていうのはまったくナンセンスだって言ってるんだよ。

伊藤:ああ、はい。

人がね、こうこうこうしてみたらってなんか言ったときに、じゃあやったらどうなるの?って聞く、質問をする根っこになるのは、あなたは単に、要するに正体を暴露してるだけなのよ自分で。どうなるか教えてくれないと不安なんですっていうメッセージなんだよ。
で、こうなるってことを保証してくれないとそれはやりませんっていうことなんだよ。それは、もうね、何を言ってるかわかるでしょ?根っこにあるのは不安がただうず巻いているだけで、勇気もなければやる気もない、っていうことを表明してるメッセージなんだよ。だからあなたがあることばを発したときに、そういうふうに見ようとする気はないんだっていうふうにぼくには伝わってくるんだよ。すでにそういう疑問が質問出てくるだけで。伝わるかな?

伊藤:わかります、はい。もう答えを聞いて、聞けても聞けたとしてもやらないってことですよね。どっちみち。

答えを聞いて、その答えが絶対的にあなたにとっていいという保証がどっかにあれば、あなたはやるかもしれないけど、でもその発想がでてくるところが問題なんだよね。そういうふうに発想してしまう。それやればどうなるのかとか。それはさ、シャカムニブッダがまだ生きてるときにさ弟子がさ、死んだらどうなるか、っていう質問をしたときに絶対に答えなかったでしょ、彼は。

伊藤:はい。

当然なんだよ。意味なさない質問だから答えないんだよ。意味をなしてないから。

伊藤:意味をなしてない?

その人の、質問をした人のこころの状態を表現してるだけであって、意味がないんだよ。それと一緒だよ。だからぼくが言ってるのは、他人を見るときにそういう目で見ろって話してるんじゃないんだよ。自分自身を見るときに借景という概念で見るとそういうふうに見ることができるよって言ってるだけであって。

伊藤:わかりました。

大丈夫かい?

伊藤:はい。

質問とか疑問ってのはいくつかのパターンがあってさ。前に話したことがあるかもしれないけど。どっかで聞いたことがあるかもしれないけど。大半の質問っていうのはさ、大半の人はね答えを知ってるのよ。答えを知ってて、例えばぼくに、この質問を投げかけるとその自分が知ってる答えを答えて欲しいんだよ。そうしたら、いい確認になるからね。

伊藤:そうですね。

それがね、もっとも多いケースだね。で、もうひとつのタイプは、いまのあなたの質問みたいに、あなたのいまの心の状態をばらすだけで、ばらしてくれるだけで質問としてまったく意味をなしていないのよぼくからみたら。普通の世界で、普通のいまのような質問をすると普通に答えてくれると思うんだよね。でもぼく普通じゃないからね。答えない。

その意味をなさない質問っていうのはすごく多いんだ、ひとがやる質問は。で、最初から答えを知っている、っていうのも基本的に質問じゃないじゃんそしたら。確認の作業だよね。確認の作業をそれ質問って呼んでる。で、いまね、いま、もうひとつのことを言ったのは、要するに質問そのものがもう質問じゃないってことなのんだよ、ぼくが言ってるのは。例えば、借景を背景として自分を見ることができればどうなりますかね、っていうのは、そういう概念、そういう理解を獲得したときに、最初にかきたてられるのが、不安だってことを暴露してるだけなんだよ。答えのないことを聞いてる。

そういう、そのタイプの質問が一番多いんだけどね。また他にももうあといくつかの種類の質問はあるんだけど、ぼくが最もいつもよく言って、最も重要視してるのは、質問の中には答えのない質問ってのがある。それ聞いたことあるかな?ぼくが他でしゃべったときに。

伊藤:いや、それ聞いたことないです。

答えのない質問っていうのは非常に単純で、例えばさ、自分は誰か? っていう疑問があるとするよね。自分が誰か、って自分に問いかけたことがあるかい?

伊藤:はい。

ある?

伊藤:あります。

どうしたそしたら?

伊藤:。。。。

もうあれだから先に言うけど、自分が誰かという質問に答えはないんだよ。

伊藤:うん、はい。それワークでやったことあります。

ワークでやったことあるの?

伊藤:いくらでもたくさん出てくるんですけど。

いっくらでも一日やっても一年やっても一生やっても答えはないんだよ。そういう質問はさ、どういう質問かというと、ただそういう質問には答えがない質問、ってぼくは言うんだよね。だけど、だから投げかけてもまったく無駄な質問かっていうとそうじゃないんだよ。答えはないんだけど答えはあるんだよ。そういった質問には。で、その手の質問はすごく多いのね。例えば自分は誰かっていう質問に対する答えは非常に単純で、そういったような疑問が発生してこない状態がその答えなんだよ。わかるかな?自分が誰かという質問、疑問は、自分が誰かという疑問が出てくなくなった状態がその答えなんだよ。わかるかな?

伊藤:出てこなくなった状態になったら、それがそうだっていう言い方なんですか?

それが、自分が誰か、に対する答えだって言ってるんだよ。その状態そのものがだよ。その疑問がでてくなくなること、じゃないんだよ。その精神状態、その意識の状態、その存在の状態が答えなんだよってぼくは言ってるんだよ。そういったことはすごく多いでしょ?例えばよく仏教なんかで、悟りを求めてずーっと、ほら修行をするよね、で、それの最後の最後の最大の妨げになるのは何かは知ってるよね?あなたは。

伊藤:いや、知らないです。

悟りを求めるこころがそれの最大の妨げになるんだよ。わかるかな?で、求めることをやめない限り、悟りは獲得できないってのが禅なんかのあれなんだよ。それと同じなんだよ。ずーっと求め続けて求め続けて、手に入りそうになっても求め続けている限り、手に入らない。で、それを手に入れるには求めることをそこでやめるしかない。それと一緒なんだよ。ぼくがさっき言った疑問のことばは。私は誰か、っていう質問疑問はね、その疑問を投げかけない限りどこへも行かないんだよ。その投げかけてずーっと進んでいくの自分。で、行ってもどこまで行っても答えは出てこないよね?で、どこまで行っても答えがでてこないってことを徹底的にやり終えたのちに、その疑問がすーっと消えていく。それが答えなんですよって僕は言ってるんだよ。それとだから同じなんだよって言ってるんだよ。そういった疑問を投げかけるのと、悟りを求める気持ち?悟りを求める気持ちを捨てない限り手に入らない。でも最も大切なのはそれを捨てるってことじゃなくて、それまでに求め続けるってことなのよ。徹底的に求め続けてあらゆることをやって、やって、で、最後に求めることをやめるっていう流れと一緒だよ。大丈夫かい?

伊藤:はい。わかりました。